Nexus5を落とした

やってしまった。自分はやらないだろうという甘えがどこかにあった。しかし、それはあのとき、自分の手からすり抜けてしまった。カバーをつけていなかったのも敗因の一つである。どうあれ、私は自分のNexus5をアスファルトの地面に落とし、あの端末の画面は、もう元に戻ることはない姿になってしまった。

落としたその瞬間は、思ったよりも何も感じなかった。拾ったときにまず驚きが来て、次に端末自体は動作することを確認し、ちょっとした安心感がある。壊れたのは画面のガラスだけなのだ。次に、修理に出すことを考え始める。「いくらかかるのだろうか。本体代金よりかは安くなるだろう。どちらにせよ、端末を治すか買うかになるので、出費は避けられない。そういえば前にサポートを受けたときは……」そういった実務的なことをひと通り考えた後に「どうしてこうなってしまったのか。時間を見るだけなら時計をしておけばよかった。カバーをつけていれば、こうならなかったのではないか。」という後悔が来る。

こうして自分自身のたどった考えを整理すると、感情がそこまで外に出てこない。感情の起伏が無かったわけではない。困惑や後悔で揺れ動いていたし、何も感じていなかったわけではない。この歳で自分の感情を露にするということは憚られる行為ではあるというだけだ。しかし、感情を外に出すことが憚られる社会だからこそ、泣き女のように、自分のかわりに感情を発散してくれる人物が必要なのではないだろうか。


photo credit: bernat... via photopin cc
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